ここから東京での一人暮らしが始まり、
今に繋がる旅が始まっていくのであります^^。
高校卒業時、本音の本音は有名人になりたいだった様に思えるのですが、
この私のルックスゆえか、そんなことは誰にも言えず、
そこで思いついたのが、何故か映画監督になると言う考えでした。
どうしてあの頃、映画も殆ど見たことのない私が映画監督と思ったのかは今も謎であります。
そして試験のない大阪芸術大学を四コマ漫画と面接で受け、
見事に不合格^^。(今は笑い話で、変な自慢でもあります)
そして次は無謀にも日本大学芸術学部を受けようとしていて
勉強も必死でして、受験票まで取り寄せたが、
親により却下された。それも人生^^(今思うと高めの授業料かなと?^^)
自主映画'86 |
しかし専門学校ならと許されて、探しに探して見つけたのが、
三年制の「東京映像芸術学院」なる専門学校だった。
そして同時期に俳優養成所に入る事を何故か親は許してくれて、
「東京新社付属俳優養成所」なる所にも所属していた。
どちらも、何も知らない田舎もんの私には楽しくてしょうがなく、
新聞奨学生をしながら真面目に両方に通っていた。
しかし朝の早い自由のない新聞奨学生では、
憧れの東京生活がもったいないと思い、四ヶ月で新聞屋を辞め、
専門学校の方も一年目の夏期制作後、学校に疑問を感じ始め、
その後1年半は席を置いてはいたがバイトばかりしていた。
その頃、唯一俳優学校だけが、生き生きとしたものだった。
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しかししかし、その俳優学校も、
半年ぐらいした頃から汚い金の臭いがしてきた為、直ぐに辞めるも、
もう自分の中には疑うものはなく、自分を誤魔化す事もなく、
俳優をやりたいんだと素直に認めて、別の学校を探しに探した。
そして当時安かったのが
スクールメイツの養成所「渡辺音楽学院」であった。
女の子がわんさかの中、
スクールメイツの基礎をぎこちなくもみっちりと楽しく六ヶ月間やり、
次のステップの本科には行かずに、演技科へと進み、
そこでアトリエ公演ながら、初めての舞台を踏んだのでした。
そして一度やったら止められない、
俳優への道ましっぐらになっていったのでありました。
・・・二十歳前の事であります^^。
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